仕江府 七八八 / ナイルレストラン 日本人の中華料理人が 世界で活躍できる環境をつくりたい。

ピックアップシェフ

仕江府 七八八 / ナイルレストラン 日本人の中華料理人が 世界で活躍できる環境をつくりたい。

若い料理人が競い合う【RED U-35】2015王者。 18歳のとき香港で心に誓った約束を、10年後に実現できた。

幼い頃から中華料理が大好き。その純粋な気持ちのまま料理人の道へ。

私の中華料理の原点と言えば、幼稚園のときに食べた“岡山の中華料理”でしょうか。母の実家が岡山にあったので、年に何度か訪ねるたびに親戚のみんなと食事に行ったのが、当時、岡山国際ホテルの中にあった中華レストラン。そこで食べる料理が大好きで、岡山に行くたびに「行きたい、行きたい!」とせがんでいました。時には和風割烹などにも連れて行ってくれたのですが、まだ幼過ぎて和食のおいしさなんか分かりませんからね。それよりストレートにおいしい『海老のチリソース煮』みたいな中華料理が大好きでした。その店に行くたびに、食べたことのない料理を次々にオーダーしていたのも、子供時代のいい思い出です。
私は両親と兄と私という4人家族で、埼玉県で生まれ育ちました。中華料理好きは、その後もますます高まり、中学生の時には「中華の料理人になる」と心に決めていました。高校を卒業したら『辻調』に入学すると進路まで決めて(笑)。そんな子供なので勉強にも全く身が入らず、その代り当時大人気だった周富徳さんの料理の本を見ながら、中華鍋をふって焼そばなんかを作っていました。高校入学後は近所のファミレスでアルバイトを始めたのですが、皿洗いで入ったのに「キッチンをやらせてほしい」と頼み込み、3年間、厨房で熱心に働いていました。当然のごとく、学校の成績はダメダメでした(笑)。両親も、とても大学に行ける成績ではないと呆れていましたね。
貯まったバイト代で高校三年生のとき、ひとりで香港旅行に行きました。本場の広東料理を食べてみたい、という気持ちで胸ふくらませて行った香港、言葉では言い尽くせないほどいい体験でした。とはいえ、それほどお金も無いのでドミトリーに宿泊し、屋台などの安い店を中心に食べ歩きをしました。超有名な『福臨門魚翅海鮮酒家』にも行ってはみましたけど、ビビって入れず(笑)、写真だけ撮って帰りました。忘れられないのは『鴻星海鮮酒家(スーパー・スター・シーフード)』。そこで食べたガチョウのローストや新鮮な海老を茹でたものなどは、感動するほどおいしかった。あの一週間の香港旅行が無かったら今の自分は存在してないと思います。「10年後、必ずこの町で働くために戻ってくる」と決心して帰国しました。

幼い頃から中華料理が大好き。その純粋な気持ちのまま料理人の道へ。

『赤坂璃宮』で修業をスタート。広東料理の焼き物担当として技術を磨いていった。

高校卒業後は大阪の『辻調理師専門学校』に入学しました。本格的に広東料理を学びたいと思っていた私は学校の勉強だけでは物足りなかったのですが、幸運なことに『福臨門酒家 大阪店』のアルバイトを紹介してもらい、週6日がっつりとホールスタッフとして働きました。厨房は半分以上が香港から来た料理人で、広東語がとびかっていました。出てくる料理も「おー、すげえな」と感動するものばかりですし、毎日賄いが食べられるのも嬉しかったですね。当時、私は坊主頭で働いていたので、香港人たちに面白がられていました(笑)。このバイトが学校の勉強よりも刺激的でしたし、ますます広東料理に魅了されていきました。
卒業後は東京で働きたかったので、就職先は都内で探し、譚 彦彬さんがオーナーシェフの広東料理の店『赤坂璃宮』に入社し、いよいよ中華料理修業が始まりました。最初の1年半はひたすら洗い物とゴミ捨て、週に一回の賄い作りだけ。同期で入った他の3人は、すぐに辞めてしまったほど厳しい仕事場でした。小さい楽しみと言えば、皿を洗っていると、隣で焼き物を担当していた香港人のリョンさんという方が、焼き豚の切れ端なんかを味見させてくれるんですよ。それがまたおいしくて、おいしくて。広東料理は完全に分業制で、焼き物担当はずっと焼き物だけしかできないシステムなのですが、リョンさんに子豚の丸焼きとか北京ダックを習いたくて、焼き物を担当することにしました。いままで「この人の料理を覚えたい」と思ったのは2人しかいないのですが、そのひとりがリョンさんです。
焼き物の技術はどんどん上がっていったものの、他の部門を担当できないシステムに阻まれ、鍋やまな板、点心、前菜は全く学べません。そうなると店を辞めるしかなく、全てができる小さい店に移ることにしました。7年間お世話になった『赤坂璃宮』を退社し、先輩がオーナーだった恵比寿の『ロウホウトイ』に転職しました。その後はザ・ペニンシュラ東京の『ヘイフンテラス』でも働きました。

『赤坂璃宮』で修業をスタート。広東料理の焼き物担当として技術を磨いていった。

10年前の約束の地・香港へ。地道に勉強してきた広東語が役に立った。

『ヘイフンテラス』で働きながら、香港に行くお金を貯めようと思いました。空き時間や休みの日は全てアルバイトにあてることにし、居酒屋とかワインバーなど3軒を掛け持ちし、寝る暇もなく働きました。200万円貯まったところで仕事を辞め、いよいよ香港に渡ります。18歳の時「ここに必ず戻ってくる」と自分に課した約束を果たせました。幸運なことに香港で店を持っている知り合いの方がおり、日本人も受け入れてくれる店でした。そこでは「子豚の丸焼き」をどうしてもマスターしたかったので、私には願ったりかなったりの修業先。毎日子豚だけに全神経を集中し、働いていました。そのころには広東語もだいぶ上達していましたね。絶対に香港で働く、と決めていたので、ずっと自主学習で広東語を勉強していましたし、年に一回は食べ歩きに来ていたので、そこで知り合った香港の友人との広東語と日本語のランゲージエクスチェンジを通して、どんどん覚えていったのです。
2軒目の店はかつて新橋にも支店があった『翠園酒家』でした。『赤坂璃宮・銀座店』の元料理長・朱遠威さんの紹介で入れていただきました。朱さんに「実は面接した別の店からの返事を待っている」と話したら、大笑いされました。香港では「あとで連絡する」というのは「不採用」ということだそうで(笑)。そんなありがたい助けもあり、1年間働いた『翠園酒家』ではベーシックな広東料理が幅広く学べたと感じます。しかしビザも切れ、持ってきたお金も底をついてしまい・・・。もっとここにいたい、帰国したくないと歯がゆい気持ちでしたが、「もう一度戻ってくる」と心に誓い、30歳の時に日本に帰国しました。  (後編に続く)

10年前の約束の地・香港へ。地道に勉強してきた広東語が役に立った。

思い出の賄い料理『手羽先中華風煮込み』

今回お教えするのは、鶏の手羽中の煮込み料理。若いころに賄いのおかずに何度も作った思い出があります。おすすめのポイントは、時間のある時にたれさえ作っておけば、あとは入れっぱなしで、煮込むだけでおいしい一品になることですね。それにお財布にも優しい料理だと思います。
できれば手羽の2本の骨の間に包丁を入れ、2つに割って煮込んだほうが食べやすいし、味も良くしみます。切り方のコツを覚えれば簡単にできます。煮込むときはたれが沸騰したら、火加減を弱めて弱火でじっくり煮込むこと。ここで火が強いと固く煮あがってしまいます。レシピでは4本分の材料にしていますが、たくさん仕込んで大皿でドーンと出したら、きっとご家族に喜ばれると思います。